新月を明日に控えた夜、広間に三蔵たちが集まっていた。三蔵、楓、制托迦、庭にはスサノオの姿もあった。みな一言もなく思い思いに座っていたが、どの顔も気迫に満ちて、その面構えをみただけでも、彼らの決意が伺えた。三蔵がすくと立った。そして縁側の方に行き、空を眺めた。そこには晦日月が浮かんでいた。
「明日は、いよいよ新月」三蔵が静かに言った。
「このところずっと、荒覇吐の祠のある北東の方角から、天に向かって巨大な力が立ち上るのが見えていたが、今日はその力が噴き出さんばかりに囂々と吹き上がっている」
楓は三蔵に言われてその方向を眺めたが、確かに黒い煙のようなものが空に立ち上っているのがはっきりと見えた。
「……あれが大黒力というものなの」
「そうだ、元々は、インドの神であるシヴァに由来する強大な力。シヴァは仏教によって組み敷かれ、今では大黒天として崇められているが、その無念の想いは消え去ることなく、この国で同じ結末をたどった国津神の力の源泉となった。その力は仏の力とは対極にあるもの。光と対をなすもの、いわば闇の力」その言葉にスサノオと制托迦の目が光った。
「あの力に打ち勝つためには、こちらも万全の陣を敷かねばならぬ。ここ数日、俺と制托迦は、この寺に結界を敷くために様々な修法を行ってきた。既にこの寺は金剛不壊の要塞と化した。生半可なものは近づくことさえできぬし、仮に入ってこれたものがあったとしても、その力の幾分かは抑えることができよう」三蔵はそこまで言うと制托迦を見つめた。
「――だがそれだけでは、あのものどものに打ち勝つことはできぬ。制托迦よ、お前は先に教えた通り、明日の夕刻、この地の南にある神社に行き、俺が放つ合図に従って、そこに祀られているものを粉々に砕くのだ。だがそれは生半可な力では壊すことはできぬ、覚悟してことをなすのだ」
制托迦は三蔵の目をみつめると小さく頷いた。その覚悟に満ちた顔を満足そうに眺めた三蔵は 今度は楓の方を振り向いた。
「楓、俺はここに至っても、お前にはここを離れていて欲しいと思っているのだが――それでも、やはりここに残るか」
「わたしの気持ちは変わらない。わたしはずっとあなたの側にいる」
これから死力を尽くした戦が始まろうというのに、楓は何事でもないかのように穏やかにそう言った。
「……分かった。ならば俺も覚悟を決めよう。楓、俺たちがやつらに打ち勝つためにはお前の力が必要だ。お前はこの結界の中心となる本堂の護摩壇の中に座り、ひたすら俺たちのために祈ってくれ。俺たちが敷いたこの結界はいわば曼陀羅だ。その曼陀羅の中心にいるのがお前なのだ。お前の祈りが強ければ強いほど、この結界は仏の世界そのものとなる」
「――わかった。わたしはあなたたちのためにずっと祈り続けるから」
言葉一つに過ぎないのに楓が語るだけで三蔵や制托迦、そしてスサノオの中に不思議な力が湧き上がってきた。スサノオはふふと笑った。
やはり、この女子はただものではなかったようだ。三蔵と触れ合うことでこの楓という女子の中にあった観音力が完全に目覚めた。しかもその力がどれほどの力をもっているのか見当もつかぬ。
三蔵は最後にそのスサノオを見つめた。
「――スサノオよ、覚悟は良いのだな。お前に全てを託す、頼んだぞ」
スサノオはその言葉の意味を十分にわかっているかのように頷いた。
「さて、これで準備は万端だな」三蔵はようやく笑った。
「――いや、もう一人強力な助っ人を用意した」スサノオが全員に告げるように言った。その言葉に合わせるように木立の中から足音が聞こえてきた。皆が一斉にそちらを向くと、熊の毛皮を羽織り、長髪を後ろで束ね、腰には巨大な剣を帯びた、まるで古の戦士のごとき男が立っていた。その男はスサノオの隣に並ぶと鋭い目つきを各々に向けた。
「この男は蝦夷の英雄で俺の刎頸の友である阿弖流為という男だ。ことの次第を話し、助力を願ったところ、三蔵のためならと快く応諾してくれた」
三蔵は分かっていたとでもいうようにすぐに庭に降り立つと阿弖流為の前に立ち、頭を下げた。
「お主のことはスサノオから聞いている。私に命を預けてくれるそうな」
「いかにも」阿弖流為は小さく頷いた。
「その言葉、しっかりと受け取った。ならばその命、私が預かろう。だが俺も誓おう。阿弖流為よ、お前の身が危うい時は命に代えてお前を救う」
「……かつて、同じような言葉を俺に語った朝廷の将軍がいた」阿弖流為は懐かしそうに言った。
「ならば、俺はその男の分まで、お前に命を捧げねばならぬな」三蔵はそう言うと、朗らかに笑った。
阿弖流為は三蔵の笑顔を見ると、にっと笑った。
「スサノオの言うとおり、命を預けるに足る男のようだ――よろしく頼む、三蔵殿」
阿弖流為の言葉が一同の耳に頼もし気に響いた。こうして荒覇吐を迎えうつ体制が完全に整った。