眼の前に倒れ伏したスサノオを感慨深げに眺めていた荒覇吐だったが、突如、背後から強烈な殺気を感じた。かわそうとしたが剣の方が素早く、荒覇吐の背中を切った。背中から血が流れたが意に介すこともなく傲然と向き直った。そして前に立っている男を睨みつけた。
「貴様は阿弖流為か……カリマはどうした」
「カリマは俺が倒した。お前がスサノオを殺したようにな!」
阿弖流為はそう言うやいなや、裂帛の気合をもって剣を振り下ろした。だが荒覇吐の斧が、それを防いだ。ギリギリと刀がきしむ中、二人は互いを睨みつけた。
「――阿弖流為よ、貴様、鬼神力を身に備えているな」
「それが、どうした」
「朝廷に裏切られた憎しみがその力を生んだか。それなのにまたぞろ大和に与する坊主に手を貸すとはな。これでは羅刹天もうかばれまいよ」
「お前にはわからぬ」
「ああ、分からぬ。我には仏の考えなど一向に分からぬ! これを見ろ、仏の敵同士であった我とお前が血を流して命を奪い合っている。お前は鬼神力、我は大黒力、それぞれが持つ力を駆使して、互いを殺そうとしている。その力も仏の力の一つだと! それが仏の心か! こうして殺しあうのが、仏が求める世界か! あの坊主には金剛力があるようだな、だがそれも同じこと。力をもつものたちが殺しあう、これが仏の世界の実相だ、こんな世界になんの真理があるというのだ!」
そう言うと荒覇吐は剣ごと阿弖流為の体を吹き飛ばした。
「我は仏の世界を認めん。仏や菩薩になれようもない者共の前に餌をぶら下げて自分らを崇めさせ、そこにたどりつけないのは修業が足りぬからだなどとほざく、あ奴らを決して認めん! そんな世界など願い下げだ。我は我らの世界をつくる! それの何が悪い!」
吹き飛ばされた阿弖流為だったが、すかさずすくと立って剣を構えた。
「――荒覇吐よ、俺とて仏の心など、さっぱり分からん」
「ならば、なぜ我とともに戦わん、なぜ、仏の手先に加勢をする」
阿弖流為はふっと笑った。
「俺には何が正しいのかなどどうでもよい。俺は仲間のために戦うのだ。俺のために喜んで命を差し出そうという仲間が俺を必要としているのなら、俺も喜んでこの命差し出そう」
「――お前は、我に似ている――だがやはり、貴様は死なねばならぬ定めらしい。惜しい男だったが――」荒覇吐が憐れむように言った。
その瞬間、何者かがつむじ風のように阿弖流為に迫ってきた。アスラだった。アスラは刀をもった三面六臂の体をコマのように回転させ、阿弖流為に切りかかった。阿弖流為は飛び跳ねてかわしたつもりだったが、着地した瞬間、左腕に痛みを感じた。見ると左腕が真っ赤に染まっていた。肉が見え、骨が半分ほども砕かれていた。しかしアスラは一瞬の隙も与えまいと再び体を回転させて襲ってきた。つむじ風が阿弖流為を飲み込んだかに見えた。だが弾き飛ばされたのは、今度はアスラの方だった。阿弖流為の上には囂々と緑色の火が噴き出し、その中で羅刹天を降臨させた阿弖流為が長い刀を持ってアスラを睨みつけていた。その刀は真っ赤に濡れ、アスラの二本の手が地面に転がっていた。アスラは苦痛に顔をしかめたが、三つの顔の一つは完全に断ち割られていた。
「――アスラよ、油断したな。この男はただ人ではない。アスラよ、この男の始末は我がつける。お前は本堂にいけ。そこがこの寺に仕掛けられた曼陀羅の要だ。そこにいるものを殺せば、この戦いは我らの勝ちだ」
荒覇吐はそう言うと、ずいと一歩前に進んだ。その様子を見たアスラは無念の表情を浮かべながらも、再び疾風のように去って行った。
楓はひたすら祈っていた。時折、鋭い痛みのようなものが楓を襲った。そのたびに涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて祈っていた。自分の祈り続ける限り、みんなは死なない、そう心に言い聞かせて祈っていた。どこかで三蔵の声が聞こえたような気がした。どこかで三蔵が自分を思ってくれているのを感じた。
――三蔵、だめ、死んじゃだめ。あなたは死なない、絶対に死なせはしない
――あなたの苦しみをわたしにちょうだい。
――あなたが背負わなければならない重い荷物の半分はわたし背負うんだから。そういったでしょう
その瞬間、楓の胸に焼けるような痛みが走った。息をすることも適わぬほどの激痛だった。
――こんなに苦しかったんだね
――あなたは、いつも自分だけで背負おうとするから、駄目なんだよ
――わたしがいる、みんながいる。あなたはたくさんの人に守られているんだよ
――あなたは死なない。もう一度、わたしのそばにきてくれる。だって、わたしのこと愛してるって言ってくれたでしょう
突然、本堂内に物凄い音が響き渡った。竜巻に襲われたかのように扉は吹き飛び、暴風が本堂の中を襲った。楓が振り向くとそこには三面六臂の赤黒い鬼が立っていた。いや三面のうちの一面はざくろのように割られ、六本の腕のうち二本は肘から先がなくなっていた。
「――お前が曼陀羅の中心か」
アスラはそう言うと、いきなり楓に切りかかってきた。楓は逃げることさえできず、目を閉じて身を竦ませたが、逆に何かに鬼が弾き飛ばされ、床に倒れる大きな音が聞こえた。楓が恐々と目を開けると、全身、火傷を負ったように真っ黒に焼け焦げ、もはや瀕死とも思えるアスラが床に倒れているのが見えた。
「……これは結界か……女、貴様も力を備えているのか」
アスラは痛みに耐えるように眉をしかめたが、楓の周りを包むようにほんのりと光っているものに気づいた途端、大きく目を見開いた。
「――観音力か」
驚きか、それとも全身を貫く痛みのためか、しばしその場で固まったようになっていたアスラだったが、再び立ち上がると楓に向かって一歩一歩近づいてきた。
「――観音菩薩に守護されたお前の結界を破るには、俺の命を捨てねばならぬか――よかろう、荒覇吐のため、我らが理想のためにこの身を捧げるのみ!」
そう叫ぶとアスラは楓に手を伸ばした。だがアスラの手が楓の周りの光に触れた途端、その手はどろどろと溶け始めた。
「うおおおおおおおお!」
それでもアスラは手を伸ばした、するとアスラに残された二つの顔もメラメラと炎に包まれた。
「菩薩よおおおおおお! 俺は貴様には負けんんんん!」
仏を守護する諸天ですら仰ぎ見ることすら適わぬ菩薩の光、犯そうとするものなどこの世が生まれてから何人もいなかったその光に、アスラは手を伸ばしていた。それはあたかも、菩薩をその身に抱こうとするかのようであった。
「うわわわああああああ!」
楓はただ目の前の壮絶な光景に見入るばかりであったが、アスラの放つ叫びは、楓の心を切り刻むように悲しく響いた。
なんと、哀れなものたちであろう。なんと、悲しいものたちであろう
楓は思わずアスラに手を伸ばした。もはや形も定かならぬアスラの手を取った。その瞬間、アスラの中に今まで感じたことがない、穏やかで温かい気持ちが駆け巡った。それがアスラの感じた最後の想いだった。アスラの全身は燃えるように溶けて、どおと倒れた。輪郭をとどめぬほど、焼け焦げ、所々溶け落ちていたが、その顔はほんのり笑っているように見えた。