「これから将来、五年十年と経つて、稀に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福を、出世を祈ると言つたツけ――斯う思出して頂きたいのです。私が今斯ういふことを告白けましたら、定めし皆さんは穢しいといふ感想を起すでせう。あゝ、仮令私は卑賤しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄のことは何卒許して下さい」
斯う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入るやうに頭を下げた。
「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒父親さんや母親さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽して居たのは全く済まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です」
引用:『破戒』(著:島崎藤村)
人には貴賤の差別はない。
僕たちはそう教えられてきた。
だがその実、信じられないような差別があったことを知っているだろうか。
穢多、非人。
その人たちに対する扱いは、言葉にするのも憚られるほどだった。
今、そういう言葉は消えつつある。
だが僕たちは、そういう差別根性をいまだに持っていないか。その差別根性が社会で膿のように膨らんで、陰湿ないじめを生み出してはいないか。
この作品を読んで、僕自身の中にもあった差別根性をえぐりだされた。そういうことを真剣に考えるようになった。
そしてもう一つ、この場面。
穢多であった教員の丑松が、子どもたちに自分の素性を打ち明ける場面。これを読んだとき、僕は丑松の心境を思って、しばし心が止まった。絶対にばらしてはならぬと親に言われ、ひた隠しにしてきた自分の素性。それをみんなの前で告げる。
それはどれだけの勇気と覚悟が必要だったろう。
僕はあるとき、自分の背負ってきた過去、誰にもいいたくない過去を付き合っていた女性に告げたことがある。
それは本当に緊張した。
好きだとか、愛しているなどという言葉を語るのとは全く異なる、あるいはそれを遥かに超える緊張だった。
自分という存在を晒す、恥ずかしいこと、汚らしいこと、言いたくないことを全て晒す。
もしかして、それを言うことができたのはこの小説を読んでいたからかもしれない。そしてそれを言うことができて初めて僕は彼女にきちんと向き合うことができたと思った。
今こうして娘と三人で平凡な幸せを送ることができているのは、ひとえにこの丑松の覚悟を自分の種とできたからなのかもしれない。
ここから先は、頂戴したコメントとそれらに対する僕の一言です。
「穢多・非人は人として見て貰えなかったというのは今では教育の場では語られていないのでしょうかね……。山の民も同様でしたが、暮らす場所が違うのでそこまで取り上げられることもないのもどうなのか……。
今騒ぎになっている黒人差別も根幹は同じですよね。アンソニー・ホプキンス主演の『白いカラス』という映画はかなり心を抉ってきます」(Aさん)
「他者を有りもせぬ上下で縛り、「自分はお前より上だ」と言う者達―――彼らには総じて「恐れ」が有る。転落・失墜・放逐・或いは死………そう言ったものを過剰に恐れるからこそ、他人にそれを見出して安心したい。逆に言えばそれだけの生き物です。差別のあらゆる形態もまた、そうした恐れと言う病に勝てなかった「弱き者達」の世界を殺す死病、と愚考します。
『変身』の著者フランツ・カフカ曰く、
「転んだ時は倒れたままの方が良い、もう二度と転ばない」
と有りますが、彼もまた弱かったからこそ醜く悲しい作品を作り続けたのかもしれません。しかしそれに共感する自分が居るものの、自分を生徒に「不浄」と敢えて断ずる丑松教員の恐れに負けない強さは、はるかに輝いて共感するものです。それこそが命や心の輝きだと、自分は信じています。願わくば、多くの人々がこの輝きに目覚めん事を………かしこ」(Gさん)
「中学校卒業で、担任から「自分の出身地に誇りを持て」と言われた事を思い出しました。村です。部落とも言われます。〇〇〇の本社があるのに。バカにされ、怒でした。人間の怖さ、醜さを知りました」(Hさん)
「『世の中キレイゴトで回ってない』
ワタシもこの作品を読んだ時その気持ちを新たにしましたね。【性悪説】に通じる処がありますし、意外ですが去年大ヒットした映画『ジョーカー』にも通じる部分が在ると想います。兎に角、人は汚いモノや醜いモノ、特に【自分の中の悪意】から眼を背け過ぎだと想います。きちんと眼を向けて『対処』しないと、ソレは【悪性病巣】のように取り返しがつかなくなってしまうのに……(Sさん)
島崎藤村は、自身が姪と関係を持ってしまったこと書いた『新生』など、人間の心の深層を抉るような作品を書いた。
この丑松の告白の場面など、丑松の心情を思うだけで心が震える。
本当にいい作品とは、自分自身がその物語の中に溶け込み、魂が抉られるような感覚に陥る。だからこそ、時には涙し、時には笑い、時には恐れ、時には勇気をもらう。
僕は人間ドラマが好きだ。
だが、突き詰めればあらゆる物語は全て人間ドラマなんだと思う。
であるならば、やはり僕らは人間を書かなければならない。
人間を突き詰め、人間を抉り出さなければならない。
人間の中にある汚いものや美しいものをしっかりと見据え、それを赤裸々に晒さなければならない。
そういうものを突き付けられたときに初めて読者の心は動くのだ。
自分の中にもそういう生々しいものがあることを感じ、その物語に吸い込まれていくのだ。
名作というのは、単に面白い作品というのとは少し違う。
名作とは、人の心を動かす作品だ。その人の人生をも変える力を持つ作品だ。読み終わった後に、深い感慨に囚われる作品だ。
僕は、物語を書こうと言う人には、そういう作品をこそ、読んで欲しいと思っている。