アマチュア作家の成り上がり小説ブログ

素人作家がどこまで高みに昇りつめることができるか

『カラマーゾフの兄弟』

「真理をあがなうために必要な苦しみの一定量が定まっているとして、その量を補うために子供たちの苦しみが必要だということになら、ぼくはあらかじめ断言しておくよ、一切の真理もそんな代償には値しないとね。要するにぼくは、例の母親に、自分の息子を犬に噛みちぎらせたあの加害者と抱き合ってもらいたくないんだよ。彼女が彼を赦すなんてもってのほかだ! もしそうしたいのなら、自分の分だけ赦すがいい、自分の母親としてのかぎりない苦悩の分だけ、加害者を赦してやればいい。しかし八つ裂きにされた子供の苦しみについては、たとえ子供自身が赦すと言っても、彼女には赦す権利がないんだ、加害者を赦すわけにはいかないんだ! だが、もしそうだとしたら、彼らが赦すわけにいかないとしたら、いったいどこに調和があるんだ? いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるのだろうか? ぼくは調和なんて欲しくない、人間を愛するからこそ欲しくないんだ。ぼくはむしろあがなわれなく終わった苦しみとともにとどまりたい」


(省略)


「ひとつ素直に言ってほしいんだが、ぼくが挑発的な質問をするから、答えてみてくれないか。仮におまえが、究極において全人類を幸福にし、宿願の平和と安らぎを人類にもたらすことを目的として、人類の運命という建物を自分で建てていると仮定しよう、ところがそのためには、たった一人だけだが、ちっぽけな、ちっぽけな一人の人間を責め殺さなければならないとする。それは、たとえば、小さな拳を固めて自分の胸を叩いていた例のあの子でもいい、そして、その子のあがなわれない涙の上にこの建物の土台を築くことが、どうしても避けられない、不可欠なことだとする、だとしたら、おまえはそういう条件でその建物の建築技師になることを承知するだろうか、さあ、嘘はぬきで答えてみてくれ!」

引用:『カラマーゾフの兄弟』(著:ドストエフスキー 訳:江川卓)

 

 言わずと知れた世界文学の最高傑作。
 おそらく世界中の人に文学の最高傑作を5作あげろと言ったら、最も多くカウントされるのが、この作品だと思う。
 今回、僕が取り上げた言葉は、カラマーゾフの三兄弟の次男で無神論者のイワンが末弟で信仰心篤いアリョーシャに問いかけるものだ。

 

カラマーゾフの兄弟

 

 イワンは神の世界を認めない。
 その理由の一番大きなものが、この言葉に凝縮されている。

 この世が神によって作られたとするならば、なぜ神は赤子や幼児まで苦しませなければならないのだろうかということだ。
 知識の実を食べてしまい、悪を知ってしまった大人はどうだっていい。
 だけど、赤子や幼児は違う。
 罪も穢れもなく無垢な状態で生まれてきた。なのにどうして、そんな子たちが大人の自分勝手な都合で苦しめられなければならないのだろう?

 この言葉に反論できる人がいるのだろうか。
 僕は反論できない。
 僕の作品のいくつかでは幼児虐待の話が出てくる。
 それは全て、この問いと関わってくる。本当はこのテーマについてはもっと書きたいのだが、考えるだけで怒りがわいてきて、とんでもない文章になるので止めておく。
 

 だが最後に一つだけ言いたい。

 僕はどんな事情があれ幼児虐待するような人間を絶対に許さない。
 そんな人間は人間と呼ぶ価値すらない。
 これだけは、誰に何を言われようとも、僕という人間が生きている限り、絶対に変わらない。


 ここから先は、頂戴したコメントとそれらに対する僕の一言です。

「キリスト教で言えば、知恵の実を食べた原罪はキリストが背負って死んだ筈。では、今人間に与えられるのは何の罪だと言われればまた別の罪があるのだという。
 ダンテの神曲では『キリスト教ではない』というだけで神の元には行けず煉獄に留まることになる。つまり宗教とはそういった扱いを主としたものなのでしょう。
 悪党すらも赦される免罪符などはまさにその象徴であることは歴史の知るところ。
 子供が苦しむことすらも『この世は修行』と言ってしまえる宗派も同様。この理不尽は単に人の未熟さ・浅ましさが原因だ。
 我も人なり……が、子を大切にできない世界にどれ程の価値があるのだろうと神に問いたい。(Bさん)

 

「異端とされていますがキリスト教の『グノーシス主義』がこれと同じ考えですね。『もし神という存在が居るのだとしたら、その神様は気が狂っているに違いない』。
 他の作品になりますが大ヒット作の『進撃の巨人』にもそのようなシーンが出てきますね。
「アンタの祖先が大罪を犯したからそれを贖わなければいけないのよ!」
「私のお母さんは誰も殺してない!!」
(Sさん)

 

「自分の恩師に、こう言われた事が有る、「世界は波動で出来ている。その証拠に、固有振動数って奴が全部に有るだろ?」。意識とは波で、その波を受信し、発信するからこそ生命体の社会は成立する。受信も発信も、どちらも誰もが千差万別ながら日常的に行っているが、ただ波紋の中心である〝個〟は、受発信を含む様々な要因で変質する。
『害』を発信する者は、自分がささくれ立って刺々しく、それが自分に刺さって痛い事を自覚している……が、その一方で有りもしない〝正しさ〟にそれを認めて欲しいからこそ、次々『害』を発信するのだろう。極端に言えば、苦しむ自分以外の『自分』が欲しいのだろうが。
 自分も神は信じているが、それは宗教などの枠組みに留まってはいけないと思う。大体どの宗教も言っている「神の愛は無限」なら、他宗派も愛せとは思うのだが、それを『害の発信者』が悲惨な方向に持っていってしまう………ゆえに自分は、もし悪魔が存在するならこの〝正しさ〟こそが、と信じている。だからこそ非常に陳腐なまとめになってしまうが………害ならぬ『愛の発信者』が世界を埋め尽くさないものか。それこそが人間が求め、人間を救う「神」だと言うのに」(Gさん)

 

「おはようございます。ぶんちくさんのこの思いが作品に流れているのだと今更ながら分かります。ニュースからはたくさんの悲しい叫びが聞こえてきます、本来は守ってもらえる人のそばにいるのに泣いているのです。そんな子どもたちが最後に目をしたのはなんなのでしょうか? 人間の顔をした醜い鬼の顔を見ながら息絶えたのでしょうか? つい最近も精神疾患のある少女を何年も監禁して死なせた夫婦の裁判がひらかれましたよね、そんな鬼畜すぎる夫婦にどんな判決が出るのかはわかりませんが極刑を願ってしまいます。カラマーゾフの兄弟、小学生のころに読んだだけです。大人になった今読み返したいと思います。(絵本や児童書以外で初めて読んだ本は罪と罰でしたww) 良い1日を………」(Aさん)

 

『カラマーゾフの兄弟』を読んだのはまだ学生の頃だったと思う。世界文学の頂点に君臨する名作の一つだということはよく知っていたけど、だからこそ始めて読むときは少し覚悟して読んだ気がする。だが読み始めたら、あっと言う間に物語に吸い込まれた。物語の中で語られる様々な言葉に魅了された。そして、この作品を読み終わった後、深い感慨に囚われた記憶がある。人とは、生きるとは、世界とはなんだろうとそんなことを考えたものだった。

 面白い小説というのはたくさんある。だけど、ずっと手元に置いておきたい、年を経てもう一度読んでみたい小説というのは本当に少ないものだ。
 もし無人島にでもいくことになって、一冊だけ本を持っていけるとしたら、僕はこの『カラマーゾフの兄弟』を持っていくだろう。

 読者が読んで面白いものを書かねばと思い、そういうことを頭に入れながら書いているのは確かだ。
 だが、僕が物語を書く本当の理由は、やっぱり僕の中で生じている叫びを、問いを誰かにぶつけたい、ただそれだけなのだ。
 おこがましいことは十分承知しているが、やっぱり僕は『カラマーゾフの兄弟』のような読者に巨大な問いを与える小説を書いてみたい。それが僕の書き手としての夢であり、目標でもある。 

 

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