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【泣ける感動小説】『42.195㎞』(三)

 翌日、俺はマラソン大会に申し込んでいた。走り切れるかとかそういうことはあまり考えかった。ただ何かを変えたかった。このまま何もしないでいたら、俺の人生は本当に蟻地獄にはまった蟻のように、ある一点に向かって落ちていくだけだと思った。それが絶えられなかった。

 仕事帰りにスポーツ店に立ち寄り、新しいランニングシューズを買った俺は、家に帰るとすぐに走り始めた。新しいシューズに紐を通して履いてみたら無性に走りたくなったってのもあったが、いくら俺だって、ほとんど走ったこともない奴がいきなりフルマラソン走るってのが無茶だってことぐらいはわかっていた。マラソン大会まであと三か月しかない。その間にしっかりトレーニングしなきゃ、到底走り切れないだろう。やるからには走り切らないと意味がない。完走もできないようなら、わざわざ走る意味なんてない。

 だから走った。雨の日も、風の日も、残業で遅くなっても毎日欠かすことなく走った。始めた当初はひどく苦しかったが、でも辛いとは思わなかった。退屈な日々の生活の中で、走ってる時だけは何も考えず夢中になれた。自分が生きてるってことを実感できた。
 そうして毎日走り続けるうちに、俺はだんだんと走るのが楽しくなっていた。実力もついてきたのか、足の運びも軽くなりタイムもどんどん上がっていった。最初は数キロだった練習コースも徐々に距離が伸びていった。

 今日はこっちを走ってみようかと、思いつくまま足を動かす。生まれ育った町で一度は来たことがある場所なのに、走っていると全然違う風景に見える。こんな家があったんだ、こんな木があったんだ、こんな光景があったんだって、見るもの全てが新鮮な驚きとともに心の中に入ってくる。

 こんにちは。
 朝走っていると散歩をしている人が挨拶をくれる。最初はどう返したらいいのか分からず軽く頭を下げるだけだったが、段々と自分から挨拶するようになっていた。
 おはようございます! おはよう。
 おはようございます! こんにちは。
 おはようございます! お疲れ!
 いつもぴったり同じ時間に遭遇する老夫婦。犬を連れて歩く女性。俺と同じようにジョギングする男性。この人たちはどんな人なんだろう、どんな人生を送っているんだろう。いつもなら全く思わないような不思議な好奇心が沸き上がってきて、走りながら頭の中でぼんやり考える。この人たちにも悩みなんてあるんだろうか。自分の人生に満足しているんだろうか。そして最後はいつも自分の人生に立ち戻る。

 

 一人っ子だったが、寂しいとは思わなかった。幼少時代の思い出には必ず自分の隣に親父とお袋がいた。お袋は小さいが奇麗な人だった。授業参観の日にお袋がやってきて、小さく俺に手を振ると、あれがお前の母親かと周囲の友達がうらやましそうな顔で俺に話しかけてくるのがなんとも誇らしかった。

 親父はでかかった。体格もそうだが、なにより人として大きかった。親父は金属加工をする小さな町工場を経営していたが、社長業よりも機械をいじる方が好きで、よく工場の前を通ると、出来上がった製品を見て社員の人たちと夢中になって話している姿があった。社員は十人もいなかったが、その人たちの顔ぶれは俺が記憶する限り、ずっと変わることはなかった。親父はよくその人たちを家に呼んで、酒を飲みながら楽しそうに話していた。その時、お袋は忙しそうに台所と茶の間を往復して酒や料理を運んでいたが、その顔はなんともうれしそうだった。俺もその輪に混ぜられて、何の話をしているのか分からなかったので、ひたすら目の前のご馳走をつまんでいただけだったが、それでも親父やお袋や社員たちが楽しそうに過ごしている中に、自分も交じっていることは悪い気分ではなかった。

 そんな親父は工場の行く末を考え、六十になる少し前に創業の頃から親父と一緒に頑張ってきた社員の一人に会社を継承させた。その後、会社は技術力の高さが評価され、飛行機やロケットの部品にも採用されて、今では海外からも受注が来ているそうだ。社長になった元社員は今でも家に時折顔をだし、会社の近況や、社員のことなど話しているらしいが、そんなとき親父は差し出がましい口は一切挟まず、ただうんうんと聞いていた。

 親父は会社をやめてもまちの人たちから懇願されて自治会長や民生委員なんかも務めていた。議員になってみないかと誘われたことも何度かあったそうだ。
 そんな親父だったから、子ども時代は親父の言うことは絶対で、よく怒られたものだった。子どもなんてわがままなものだから、その時は憤慨して、喚き散らしたが、今思えば、いつも親父が正しく、単に俺が幼稚なだけだった。俺は親父に甘えていただけだった。親父がいたからこそ、何の不安もなく生きてこれた。

 高校もいき、そこそこ名の通った大学にも入学できた。それなりに勉強もできたし、スポーツもできた、友達もいたし、何人かの女性とも付き合った。
道を踏み外したつもりはなかった。自分の前にあった道をそのまま歩いてきただけだった。それなのに、今どうしてこんなことになっているのか。どこかで道を間違ったのか、別な道があったのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながらいつも走っていた。

 

町工場で働く人



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