職場では走ることは黙っていた。
特段、理由があったわけではないが、なぜかしゃべりたくなかった。形だけ言えば、単に市が主催するマラソン大会に出るだけのことで、他人にしてみればどうということもない。凄いなとか頑張ってとか何かしら言葉はもらえるだろうが、単にそれだけのことでしかない。
でも俺にとってこのマラソンはそんな軽いものじゃなかった。いわば、自分が生まれ変わるための儀式であり、自分の人生をかけた挑戦だった。そんなこと誰にも理解できないだろうし、理解してもらいたくもなかった。
マラソンに出ると決めてから、芙紗子とは話をしなかった。もちろん、仕事の話はするが、それだけ。以前のように食事に誘ったり、仕事の合間に軽口を叩くこともなくなっていた。仕事が終われば、お疲れさまでしたと一言、誰につぶやくでもなく言って、そのまま席を立ち、職場を後にした。そんな俺の変化を彼女もなんとなく感じたのだろう。たまに何か言いたそうに俺の横顔を見るときがあったが、俺はその視線を無視した。
ただ、大会が近づくにつれて、芙紗子にだけは話しておきたい、いや話すべきだと思うようになっていった。
なぜ走ろうと思ったのか、それが自分にとってとても大事なことであることは十分分かっていたが、その理由を考え始めるとまるで雲をつかむように判然としなかった。
仕事帰りにたまたま遭遇したランナー。渋滞で立ち往生している俺たちなど全く目に入っていないかのように、ただひたすら前だけを見つめて走っていた。そのランナーを見て触発されたことが直接的な理由には違いない。でも、それだけとは思わなかった。俺の中にあったいろんな思いが渦巻き、交叉して、走ることを決めたんだと思う。そのいろんな思いの中に、芙紗子という存在は確かにあったと思う。もしかすると、彼女に振られたことが一番の理由だったのかもしれない。それならそれでいいと思った。だからこそ、彼女にだけは話すべきだと思った。
マラソン大会を二日後に控えた金曜日。終礼を終えて席に座った俺は、芙紗子の方を向いて言った。
「実は俺、明後日のマラソン大会に出るんだ」
俺の唐突な言葉を聞いた芙紗子は一瞬何を言われたのか分からなかったみたいだが、ようやく腑に落ちたような顔で言った。
「ああ、そうだったんですか……なんか、先輩最近、変だなと思ったら、そういうことだったんですね……」
「芙紗子さん! 先に行ってますよ!」
唐突に入口で騒いでいた後輩たちの声が飛んできた。
「あっ、今行きます! ……すいません、ちょっと誘われちゃって……あの……マラソン、頑張ってくださいね」
芙紗子はそう言うと、いそいそと帰り支度をして、後輩たちの輪の中に入っていった。部屋を出ていくときに芙紗子はちらっとこちらを見たが、結局、そのまま行ってしまった。
別に何かを求めていたわけじゃなかった。ただ単に彼女に俺の決意を知って欲しいだけだった。だけどひどく心が重かった。職場はいつの間にか俺一人になっていた。俺は無人の職場の電気を消して、家路についた。
いつもなら家に帰れば、すぐに着替えて外に走り出すのだが、その日はなかなか走る気になれなかった。ベッドに横たわっていると、いろいろな妄想が頭の中を駆け巡った。
芙紗子は今、後輩たちとどんな話をしているんだろう。たわいもない話で盛り上がり、笑っているんだろうか。二次会にも誘われてどこかに行くんだろうか。その後は……
考えたくなかった。考えまい、考えまいとした。だが、いくらそう思っても、心の中の芙紗子は消えず、それどころかどんどん大きくなっていった。息が苦しくなった。胸が苦しく、心が張り裂けそうになった。
俺は家を飛び出していた。
無我夢中で走った。走らないと自分が壊れそうな気がした。走ることでしか、自分を救えなかった。
無謀なほどスピードをあげた。息が苦しく、心拍があがった。だが、その苦しさが心の中に入り込んだ虚無感をいつの間にか吹き飛ばしていた。
俺は生きている。ちゃんと生きている。この世界でしっかり生きている。
そんなことを呟きながら、夜の道を無我夢中で走った。
走り続けるうちに、いつの間にか、いつもの俺に戻っていた。
そうだ、芙紗子のために走るんじゃない。芙紗子に振り向いて欲しいから走るんじゃない。そんなことは分かり切っていただろ。自分のために走るんだ。自分を変えるために走るんだ。いよいよ明後日は本番だ。このために俺はずっと走ってきたんじゃないか。今さら考えることなんてない。考えてもしょうがいない。42.195キロ走り切れるか、ただそれだけだ。集中しろ、目の前のことだけに集中しろ。このままじゃ、とうてい走り切ることなんてできないぞ、こんなことじゃ、自分を変えることなんてできないぞ。今は、ただ目の前のことだけ考えろ!
汗だくになって家に帰ってきた俺は、シャワーを浴びるとすぐにベッドに横たわった。ついさっきまで俺の中で渦巻いていた黒々としたものはすっかり消え失せ、俺はいつの間にか寝入っていた。